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 金津地区は北陸街道の宿場町。北陸街道と竹田川の交差する土地にあり、室町時代には金津宿と呼ばれていた。
 「金津」の由来として、「坂那井津(さかないのつ)」からという説、「たたら」跡との関連をいう説もある。  江戸時代には30匹の役馬が義務づけられ、北は細呂木宿、南は長崎宿、その他三国湊・丸岡城下とも往来があった。当宿には六日町・八日町・十日町など定期市に由来する町名が多い。また、金津奉行所がおかれ、越前国外、ことに加賀の国の「下筋の押」としても重要な役割を担っていた。
 地区の中心部を流れる竹田川には金津橋が架かっている。古くは市姫橋と呼ばれていた。市姫橋の名は橋の南たもとと西たもとに市姫神社があったことによる。橋には中世以来北陸道が通過し、南岸の下手は三国湊へ船を通じた。この水陸交通の十字路は物資集散地となり、そこにたった市の守護神が市姫神社だった。橋のたもとにあった河戸(船着き場)は越前の三大河戸とも称され、物資運輸の中継地として重要であった。近世には宿駅として南・北金津にそれぞれ問屋と本陣があり、当時は金津は竹田川の唯一の橋であったから常に人馬の往来でにぎわった。
 現在、7月に行われる金津祭りは、各区では町内に本陣や飾り物を作り、見物客の目を楽しませてくれる。  
     参考図書 「福井県大百科」福井新聞社
            「福井県の不思議事典」新人物往来社

        

千束 一里塚
江戸時代に金津の宿場と細呂木の宿場との間にあった休み場で、北陸道越前16カ所の一つ。昔は道の両側に塚があった。

金津城溝江の館跡
 溝江氏は、朝倉義景に使え、金津城を構えた。朝倉氏滅亡後は信長・秀吉に仕え、検地奉行として活躍したが、関ヶ原の戦いの後没落し、彦根藩に仕えた。

多賀谷左近の墓
 多賀谷左近は、福井藩初代藩主結城秀康の家臣で、柿原台地を中心に館を構え、山十楽・清王・柿原は城下となった。

雨夜塚
 俳人松尾芭蕉が金津にきた際に雨にあい、総持寺の近くで雨宿りをした。金津の俳人坂野我六がそれにちなみ、雨夜塚という石塔を建てた。

嫁おどし谷
 昔、山十楽に百姓の嫁がいた。嫁が毎晩蓮如上人のもとへお参りを続けた。それを快く思わなかった姑が、この谷で鬼面をつけて嫁をおどしたが、姑もその後、信仰するようになった。